喜びや快楽は己のものとし、その感情の出どころは己自身であり、事象の受け止め方は自由である中で喜びや快楽と見出しているのは己自身。その要因を憶測で探り、理と憶測の入り混じった他者依存的思考により、「感謝」などという歯の浮くような言の葉を仕切りに発する。
喜びも快楽も人が感じ・発するものの一部でしかない。
妬み、恨み、悲しみ、苦しみ、憎しみ、絶望についてはどうであろうか。もしも喜びや快楽を享受し己が事とするならば、これらの感情も己が事とせねば理は成らない。至極単純な事であるが、主観に囚われていてはこの簡単な事実にすら思い至ることはできない。
何かのために生きていると口にする者。家族のため。恋人のため。親のため。友人のため。恩師のため。弟子のため。宗教のため。イデオロギーのため。党派のため。主張のため。趣味のため。己のため。仁義のため。報復のため。これらは総じて、心の弱さからくる依存心である。
なぜ心が弱いのか。己に十字架を背負わせるからである。
己が理不尽さや不調和とまっすぐ対峙し、己が弱さを正面から見据え、己を打ち破る勇気あるものを、心という。
心のある血の通ったヒトとして生きることをやめれば、一瞬で地獄に引き寄せられ、魂が望まぬ悪魔の契約に踊らされて生きる操り人形となろう。

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